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〈第7回〉 長い伝統を持つ4大植木生産地の形成


 日本の園芸文化は、遣唐使らが奈良時代から平安時代にかけて、ウメやアサガオなどのように、漢方薬として持ち帰った実用植物とともに中国大陸から渡来しました。
 やがて江戸時代になると、日本の園芸文化は世界に類を見ないほどに発展します。その最大の特徴は、『草木奇品家雅見(かがみ)』や『草木錦葉集』などが著されたように、斑入りや変わり葉など奇品・珍品が好まれたことによると言われています。花好きの将軍や大名・公家らの篤い庇護と褒賞の下、家督を継げない旗本らは実益を兼ねた高尚な芸道として新品種の作出に励み、隆盛を極めました。
 その文化は、大名の参勤交代や物流の発達に伴い、歴代将軍とのつながりとともに東西を行き交い、江戸・尾張・上方・両筑などの大都市において独自の発展につながったとされています。そこには大規模な園芸商が集まり、江戸染井に代表されるような植木の一大供給地へと成長を遂げていきました。
 明治・大正期に入ると欧米から多品種にわたる植物が導入され、加えて白沢保美*らの指導による都市緑化の兆しも見え始め、それらの地域は「4大植木生産地」(表)と呼ばれ、今日に継承されています。
 明治・大正期以降になると造形木など庭園樹の需要が高まり、新興産地が全国各地で見られるようになります。なかでも千葉県匝瑳(そうさ)市(大阪府池田市の植木業者が病害虫に強い八日市場のイヌマキに着目し、関西地方に紹介したことで一気に植木生産が広まっていった)や神奈川県藤沢市(鎌倉や鵠沼(くげぬま) 地区の別荘地帯で需要が高まり、地形が平坦で、関東ローム層の土質が生産条件に適していた)が大きく発展しました。そして、戦後の緑化ブーム期では、三重県鈴鹿市(特に昭和30年代に少数の専業業者の指導によって「サツキ」主体の単品目専作型の産地となり、日本一の生産量を誇る)が顕著な発展を遂げています。
 日本社会は今、東日本大震災により壊滅的な被害を受け、厳しい状況にあります。我々緑化業界は、復興の一翼を担うべく、長い歴史の中で培ってきた多くの知識と技術を生かし、業界を挙げて貢献していかなくてはならないと考えています。
* 白沢保美(しらさわ・やすみ) 1868年生まれ。
東京帝国大学農科大学林学科卒。林学博士。1907年東京市の街路樹事業の大綱を樹立。

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〈4大植木生産地〉

生産地
特徴・歴史
埼玉県川口市
・さいたま市
「安行植木」として世界に知られる産地。10年に一度オランダで開催される園芸博覧会「フロリアード」にも出展している。江戸初期、伊奈半十郎忠治が、植木や花の苗木栽培を奨励し、これらを江戸で売り出したのが始まりで、江戸駒込・染井地区と同じ日光御成街道沿いという好立地条件に伴い、植木の郷として発展した
愛知県稲沢市 鎌倉時代、矢合町の禅師が中国より柑橘苗木の生産技術を持ち帰り、近隣に伝授したのが始まりとされる。戦後になって、山林種苗全体から果樹苗木の生産に移行し発展した
兵庫県宝塚市・大阪府池田市 安土桃山時代、坂上善太夫頼泰によって「接ぎ木」という繁殖方法が開発され、わが国の園芸の礎を築いたといわれる地域である。阪急山本駅前には「木接太夫」の石碑が建てられている
福岡県久留米市 江戸時代よりロウソクの原料となるハゼノキの苗木の一大供給基地であった田主丸地区(現在は柑橘類苗木の生産で国内シェアの多くを占めている)は、そのころから殖木村を中心としてツツジの栽培研究家が多く集まり、品種改良や栽培法が開発され、クルメツツジとして広く知れ渡っていった